正義が悪に勝てる保証はない。なぜならば・・・・(@カルテル・ランド)

カルテル・ランド

オレオレ詐欺の手口はますます高度になっています。

例えば「母ちゃん!痴漢で捕まって示談金を支払わないと逮捕される!」と泣きつく息子(役)から電話をもらったある女性は、詐欺だと気づかずにお金を支払ってしまったそうです。

実際に警察官を名乗る複数人の集団が、その女性の自宅を訪問したことで、「息子が痴漢をしたのは本当のことなんだ!」と信じてしまったのだそうです。

なぜ?頻繁に「オレオレ詐欺には注意してください!」と騒がれているのに、オレオレ詐欺はなくならないのでしょうか?

一番単純な答えはズバリ、「悪は法律を守らないから。」です。

例えば、悪は「正義を騙る」ということだって平気でやります。「わたしはあなたの味方です!」といいながら標的に近づくのです。

あなたは驚くかもしれませんが、「まともに見える人」に騙されるので、被害者のなかには「わたしは騙されていない。あの人はいい人だよ。」と加害者を擁護する人だって珍しくありません。

さて、、、、このような話をきいても、、、、、あなたは心のどこかで「自分は大丈夫。」と思ってはいないでしょうか?

残念ながら「自分は大丈夫。」という根拠なき自信を持っている人ほど、悪意だらけの人間に騙されてしまうのですが、あなたはその理由がわかるでしょうか?もしわからなければ、これから紹介する映画を鑑賞してみることをおススメします。

カルテルランド

あらすじ

映画の舞台であるメキシコのミチョアカン州のある地域では、長年凶暴な麻薬カルテル「テンプル騎士団」の横暴に悩まされていました。

そこで医師のホセ・ラミレスは、市民たちと自警団を結成し、テンプル騎士団に立ち向かっていきます。果たして自警団はテンプル騎士団の支配から平和を取り戻せるのか・・・・

みどころ

「テンプル騎士団」の支配に苦しむ住民は、「メキシコの警察も軍隊も麻薬カルテル(テンプル騎士団)とグル。わたしたちを守ってくれるのは自警団しかいない」といった具合に、自警団の存在を認めます。

しかし「テンプル騎士団に対抗するため。」という目的があるにせよ、自警団も「非合法な武装組織」です。自警団が規模を拡大すると「うちの地域には自警団はいらない。合法的な組織でなければ嫌だ!」という意見が一部の住民から噴出し、メキシコ政府からも「武装を解除せよ。」と圧力をかけられます。

ここでメキシコ国民には2つの選択肢が突き付けられます。

1つ目の選択肢は、「非合法の組織に対抗するために、非合法の組織であろうがその存在を認める。

2つ目の選択肢は、「非合法の組織を『政府公認』の合法の組織に変更する。

結果的に自警団のほとんどの構成員は、政府からの提案を受け入れる(つまり2つ目の選択肢を採用する)わけですが、結果的に政府公認の組織に変貌した自警団は、テンプル騎士団に飲み込まれていくのです。

自警団が堕落していく顛末は映画で詳しく描かれているので、詳しく説明することはしません。

今回指摘したいのは、なぜ?2つ目の選択肢を採用することが落とし穴になってしまうのか?という点です。

勘のいい方ならその答えがわかるはずです。そうです。「悪は法律を守らないから。」です。

ですからわたしたちが悪を撲滅するために、どれだけ法律を整備しようがすべての悪がこの世から消えてなくなるわけではないのです。(悪は常に法律の裏をかいてきますからね!)

それにもかかわらず、、、、悪に対して法律はあまりにも無力なのに、、、、わたしたちは「法律があれば平和は守られる。」と勘違いしてしまいしがちです。

ではなぜ?法律がキチンと整備されれば安心だと勘違いしてしまうのでしょうか?

根本的な原因は「みんな仲間」だと妄信しているからです。

社会は「みんな仲間。」だという信頼があってはじめて成り立つ奇跡(幻想)ですが、そもそも「みんな仲間。」という主張は、冷静に考えてみればみるほど怪しい主張です。

例えば「仲間」って誰のことでしょうか?「仲間」というからには「仲間以外」がいるはずですが、「仲間」と「仲間以外」の線引きはどこに引くのでしょうか?

映画カルテルランドでは、「仲間に仲間じゃない存在」が潜り込むわけですが、仲間を仲間だと信じられなくなった時、自警団という存在も堕落していきます。

もしバブルの時代に映画カルテルランドを鑑賞した日本人なら「世界にはこういう国や地域もあるんだなぁ。」と傍観できたかもしれませんが、現代の日本人には無視できないでしょう。

冒頭で紹介したオレオレ詐欺しかり、最近では一見するとまともな組織ですら「ひどいこと」をするようになってきました。

例えばわたしの知り合いの友人は、某銀行の提案に応じたがために1,000万円を溶かしてしまいました。もちろん銀行の提案は非合法ではありません。

しかし提案にのった預金者は損をして、提案をした銀行は利益を得ていることは事実です。銀行の担当者はこう反論するでしょう。「それが仕事ですから。」と。

そのように考えていくと「みんな仲間」だとわたしたちが信じることができたのは、経済的に余裕のある「中流家庭」が珍しくなかった特殊な時代にだけに許された信仰なのかもしれません。

余裕があるときは他人に優しくできても、「貧すれば鈍する」という言葉があるように、貧しくなると「他人を騙してでも自分がよければいい」という発想になりがちだからです。

とすると今後、経済格差はますます広がっていくでしょうから「ルールを守れば平和は守られる」という幻想を信じる人はむしろ少数派になるでしょう。

そうなったとき役立つのは「サバイバル力」です。世知辛い時代であっても、それでも他人を幸せにする努力を怠らなかった人だけが幸せになれる可能性があります。

それにもかかわらず今の日本は、努力のベクトルを自分ではなく他人に向ける人がたくさんいます。法律を守らない人を発見すると不安で夜も眠れない人が急増しているのです。

例えば「芸能人の不倫を面白がってネタにするメディア」、「誰もいない道端でタバコを吸うだけで怒り狂う人」、「公園で遊ぶこどもに、声を出すな!と怒り警察に通報する近隣住民」などなど、挙げればキリがありません。

みんな不安なんです。不安だから不安を埋め合わせるために「ルールを守れ!」と、他人に強要したくなる気持ちもわかります。

しかしルールや決まり事(法律含む)に依存すれば依存するほど、「誰が仲間だかわからない社会」では、自分や家族や仲間をむしろ危険にさらします。そのことを再確認するために、是非、映画「カルテルランド」をチェックしてみてください。